第十二回 することが楽しむことになる
自分にむきあう
どんなときに自分は楽しんでいるか?
喜びは何か?
これから何をしたいのか?
今年の春、久しぶりの入院と自宅療養でゆっくり時間を過ごす中、自分に問いかけていた。脳機能を回復するため、哲学くさいテーマを感覚に問いかけ、暮らしの中でデータを蓄積する日々だった。
自分を感じる
ゆっくり過ごし、楽しむこと。
慌ただしく過ごしてきた私にとって、社会から離れて静かに暮らすことは、苦行ですらある。
幸運にも、3ヶ月は病後のリハビリという名目で体や心に向き合うことに決めてしまった。体の違和感を感じ、心もとなさに揺れる中で、ひとり自分へ問いかけをすることになる。
ゆっくりと味わう。
自分に出会う。
ささやかな毎日の営みを、新たな感覚で感じてみる。
与えることと受け取ることのバランス。
好きなもの、好きな場所。
今で手にしなかった本に出会い、新しい音楽をダウンロードする。
犬と一緒に公園に出掛け、猫と一緒に昼寝をする。
絵を描く。
元気になったら行きたい展覧会をチェックする。
体調を言い訳に、家族には色々なお願いもしてみた。遠慮から背負い込んでいた役割は、予想以上に軽くなった。
手放して、手に入ること
体が回復しつつある中で、臨んだ仕事で気付いたことは「今までやり過ぎていた」ことへの反省だ。しなければならない…と思うことの多くは、しなくても何の問題もなかった。
それよりもビジョンを描き、関わる多くの一人ひとりの可能性に気づいたり。信頼を発揮しあう場に委ねるたり。信じて待つことが最も重要な役割であることに気づいた。必要があれば苦言を呈して主張する…当たり前なことを当たり前にするだけで、ことは済んでいた。
体力の限界ラインが下がったおかげで、拡がりを持ちながら様々な「無駄打ち」が飛躍的に減った。
自分に栄養をあげる。
自分を励ます。
自分を信頼する。
プロジェクトを進める「たくさんの私」の自分が満ち足りること。自分が何に満ち足りると満足するか?を知っていること。そこからはじめて溢れる力を活動に渡すことができる。
あるべき論の多くは、受け取りかたも人それぞれで揺らぐものだ。表に現れた声の奥底にある…言葉にもならない感覚や感情、隠れた意識に現実がある。表に現れた声と隠れた意識が、本人が無自覚でまるで裏腹なんてことはよくある話だ。
どんなときに自分は楽しい?
喜びは何?
私はどうしたい?
することが楽しむことにつながると、動きは持続性や主体性、拡がりを持ちはじめる。リスクを取ることも、取り方次第。身の丈であれば笑ってすむこともある。
甘いばかりではない現実に、どう向き合うか?試案する前に、自分に問いかけてみるのもおすすめだ。